バンド時代−かつてのバンド仲間たち、及びこの時代をともに過ごした友人に捧げる


●1977(昭和52)年−18歳

−大学に入ってすぐ、ギターの上手い奴とドラムを叩ける奴と知り合い、初めてバンド結成する。

バンド名:ミルク Ver.1(1977年限り)−ベース(加藤英一)、ギター(本間五一)、ドラム(水村猛)
■水村のいい加減な性格に飽きてきたころ、風の便りで中学時代の同級生がドラムをやっていて、防音スタジオを持っていることを知り急接近する。中学時代にはほとんど口をきいたことが無かった奴だが、なぜか意気投合。ほぼ同時期にギターの本間の紹介で、ボーカルの小林とも知り合う。
□演奏曲目は主にディープパープル


●1978(昭和53)年−19歳

−勝手な共同生活は楽しかったし、大学にはほとんど行かなくなったし、恋人と過ごす時間は楽しかったし、もうすべてが楽しかった。ついでに大学にも興味を失い、中退する。両親は一言、「お前が後悔しないならいいよ」。この言葉は助かった。

バンド名:ミルク Ver.2(1977〜78年)−ベース(加藤)、ギター(本間)、ドラム(宮津明)、ボーカル(小林)
■このメンバーで初めてステージ演奏を経験する。アマチュアらしさにあふれた、なかなか楽しいバンドだったが、俺のキツイ性格に小林が嫌気を抱き始める。やがて俺はドラムの宮津に感化され、漠然とプロフェッショナルを目指すようになり、今でもある「Player」誌にメンバー募集を出し始めた。そして宮津の紹介でボーカルの斉藤が、募集ページからサイドギターの岡島が加わる。
□演奏曲目は、レッドツェッペリンやジミヘンが半分、そして小林と加藤のオリジナル曲が半分


●1979(昭和54)年−20歳

−もう何にも束縛されない、しかも家業をいい加減に手伝ってお金も適当にある、クルマもある、恋人もいる、バンドも無事に成長している、何も言うことのない日々が続いたのがこの年だった。バンド活動は適当に、夏は毎週のように千葉の鴨川にダイビングしに行って、無責任に父親の商売を手伝う。もうたぶんこんなにすべてに夢中で過ごしていた時は味わえないだろう。

バンド名:ピンクシャンペーン Ver.1(1979〜80年)−ベース(加藤)、ギター(本間)、ドラム(宮津)サイドギター(岡島栄樹)、ボーカル&サックス(斉藤)

■思えば、音楽活動を熱心にしていたころの華と呼べる時代がこのときだった。
 俺を除いて、メンバーの技量は最高だったし、キチンと週に2回は吉祥寺のスタジオで練習をしていた。俺のヤル気は満々で、雑誌で見た、当時新宿にあった「ACB(アシベ)」というライブハウスのオーディションを受けたりした。そしてなぜかオーディションは同時に受けた20バンドの中から俺たちだけが合格! 「新宿ACB(アシベ)」は専属みたいな形になり、週に一回は出演していた。
 ここの当時の責任者の児玉さんという人が不思議な人で、当時(今でもそうだが)、ライブハウスに出演するにはチケットを買い取るのが慣例で、30〜40万円は平気で取られるものだが、なぜかウチらのバンドだけは無料だった。逆に週1回2時間ほどのステージをこなすとバンド全員でだが、5000円のギャラももらった。ただし児玉さんに最初に言われたのは「毎週一回はステージに立つ、月に2〜3曲はオリジナルを作って演奏する」ということだった。
 しかも児玉マネージャーは俺たちの何を気に入ってくれたのか、一回でもステージをサボってると電話がかかってきて、「いつでもいいから出演しなさい」とまで言ってくれる。
■このバンドでは、「ACB(アシベ)」以外にも、フジテレビの何かのバンド番組のオーディションも受けたが、ボーカルのトチリ(歌詞の順番を間違えやがんの)で落選。ルイードやら屋根裏とか、ほかの別のライブハウスのオーディションも受け、例の金を払えという合格を頂いたが遠慮している。でも、月に1〜2回の出演でも、週に2回練習していると、毎日が楽しかった。バンドとしては最強で、最も充実していたときでもあった。
□演奏曲目は、加藤のオリジナル曲

○今までで最強のバンド「ピンクシャンペーン」。左から加藤(半身になってジャズベースを弾いている。アフロ
ヘアだった)、斉藤(サックスを吹いている)、宮津(白い自分のドラムの奥に座ってる)、岡島(ニットの帽子
に本物のストラト)、本間(かすかに白い帽子がおぼろげに見える)。当時の写真はこんなのしか無い、残念。
1980年ころ、新宿ACB(アシベ)会館にて


●1980(昭和55)年−21歳

−精神的に自由であった日々はこのあたりから黄昏を迎える。マンネリというか、変化の無い日が続くと、若い精神は堕落するのだろう。今では考えられないことだが、バンド活動をしていたときはモテた。一人と知り合うと、その娘の友人まで頂けた。そんなことにうつつを抜かしてばかりいたときでもあった。

バンド名:ピンクシャンペーン Ver.2(1980〜81年)−ベース(加藤)、ギター(本間)、ドラム(宮津)、サイドギター(岡島)、ボーカル(西川)、パーカッション(末永政治)、キーボード(直美ちゃん)

■児玉マネージャーは怒ったけど、やはり毎週はキツくて、バンドは「ACB(アシベ)」に月1くらいで出演。とりあえず少ないギャラでも発表できるホームグランドはあったが、ボーカル役の斉藤とは次第にソリが合わなくなってきた。去る者は追わない主義なので、案の定、ボーカルは抜けたが、再び雑誌の募集で西川という奴を入れる。と同時に、知人であった末永政治をパーカッションに迎え入れ、さらに、俺の恋人であった女をキーボードでメンバーにしている。
■最もグラマラスで、児玉さんが居なくなった後の責任者に言わせると「もう君たちは2時間をオリジナル曲で埋められるし、初期の荒っぽさが抜けて洗練され、なかなかいい方向だよ」というバンドだったが、俺はなぜか不満だった。
 責任者が変わっても、相変わらず俺たちのバンドだけは少ないギャラで、好きなときに出演していいという好待遇で、年末のクリスマスステージではバンド名通りのピンクの「シャンペン」まで振る舞ってくれる。「ACB(アシベ)」はちゃんと雑誌の出演予定表に掲載してくれたし、当時、大竹まことらも居た「シティーボーイズ」も俺らより早く時間だが出演予定表に出てた。今、当時の「ぴあ」とか「シティーロード」が無いのでわからないが、後に有名になった人たちも大勢出演していたんだろうな。
□演奏曲目は、すべて加藤のオリジナル曲


●1981(昭和56)年−22歳

−俺にとって転換期ともなったこの年、バンド活動の休止とともに、恋人やメンバーにも去られる。原因は、俺のわがままに嫌気をさしてメンバーが離れ、恋人は、俺が不義理なことをしてしまったから。ま、去る人は仕方がない。この年は、このくらいしか覚えてない。風の「22歳の別れ」が身にしみた。

バンド名:ピンクシャンペーン Ver.3(1981年)−ベース(加藤)、ギター(岡島)、ドラム(末永)、ボーカル(西川)

■4年ほど続いたバンド活動は、とりあえずこの年で休眠する。なぜそうなったのかは思い出せないが(たぶん俺のわがままだろうけど)、ギターの本間とドラムの宮津がバンドを抜ける。同時に、やっぱりなぜなのか覚えてないが、「ACB」にも出演しなくなった。これは、強力なバンドを経験すると技量がそれ以上じゃないと燃えないものだ。なんか先が見えなくなってきて、当時できたばかりの所沢航空公園の野外ステージのコンテストに1回出演しただけで、このバンドは終わった。
□演奏曲目は、加藤のオリジナル曲

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?バンド(1981年)−ベース(加藤)、ギター&ボーカル(本間)、ドラム(宮津)

■やはりなぜかはわからないが、3人で演奏しはじめる。一度はバンド活動をしなかった3人だが、個人的なつきあいは続いていて、自然と演奏をするようになった。しかも演奏するときはスタジオではなく、当時自分が住んでいた所沢の外れ、両親が経営していた畑の中の一軒家の店の2階の自分の部屋だった。真夜中でも騒音騒動にならないくらいの田舎の環境だった。
 思うと、最初からこの3人だけで、ボーカルは俺が取ってやっていればよかった。それくらい、週に2〜3回集まっては平気で夜中に4〜5時間演奏していた。
 このときの演奏はちゃんと、当時流行りはじめたから買った4トラックMTRで録音してあるが、本当にいい感じでまとまってる。とてもリラックスしていて、演奏もスリリング。このときあたりで、やっと俺の音楽テクニックが本間と宮津に追いついた感じ。後に宮津はノイローゼになったとのことで、彼の両親から「会わないでほしい」と言われた。原因の半分は俺にあるんだよね。もっとまともに、3人バンドで、強力にバンド活動してやればよかった。めったに後悔しないが、宮津を失ったことは猛烈に後悔している。
□演奏曲目は、チャーの曲とビートルズ


↑宮津明・昭和33年10月27日生まれ・蠍座B型・酒に強い・蕎麦(そば)アレルギーあり
あれから、今どこで何してんだろ。重くてパンチがあって速くて、凄いドラマーだった。
こいつが俺を引っ張ってくれてたと信じてる。いつでも会いたい。










←本間五一・昭和33年11
月18日生まれ・蠍座A型・
やっぱり酒が強い・アレル
ギー無し

こいつはギター上手い、ビリ
ヤードその他スポーツ万能プ
ロ並み、将棋強いなどなど、
何をやってもハンパじゃなく
凄い。惜しむらくは、その性
格で、ちょっとネガティブ。
こいつの容姿と頭とマジック
ハンドと、そして俺の性格が
一体になったら世界征服も夢
じゃないと思う。やっぱり、
ギターもこいつじゃないとい
けないと決めてる。

確か、一緒に演奏しなくなっ
て、もう5年以上になる。俺
を引っ張ってくれたのは宮津
だし、俺を育ててくれたのは
本間だけだ。よく俺と音楽や
ってくれたよ。多謝、多謝




そして俺。昭和33年11月19日生まれのO型。テクニックの無い所を楽器でカバーしようと、本物の
BCリッチが欲しかったんだけど、50万円前後と高いから諦め、1981年当時限定生産でカタログにも
記載されなかった、グレコのイーグルベースを12万円、ローンで購入。これは、ヘッドのマークがR
じゃなくてGになってるだけで、他は全部BCリッチと同じパーツ。ピックアップ、サーキットともに最高。
ほぼ同時期に、やはり楽器に頼ってアンプも、40WのRolandからトランジスターながら100W以上
出るacousticに変えた(はっきり言ってイーグルベースより高かったけど、正解だった)。1970年代
のacousticアンプとイーグルベースの組み合わせは、文句無く最高。これでジャコパスから、ステ
ィングまで、好きな音が完全に出せた。


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