1967年頃?Greco VB-200、VB-300 里帰りを果たす!

●ここはフジゲン(平成元年、1989年までの社名は、富士弦楽器製造)の工場。といっても松本市の本社工場ではなく、ギターなどの製造はすべてここ、大町工場で行われている。正直、世界有数の楽器工場だと聞いていたので、もっと大規模な工場で、機械類の喧騒にあふれている雰囲気かと思っていた。実際は、のどかな環境の広大な敷地で、ゆっくりと、しかし確実に密な時間が流れているのを感じた。

■2013年7月8日〜9日
 それはもう、話せば長くなるのだが、日本が誇る、ことエレキギターに関しては月間生産台数世界一を記録したくらい、世に知られた楽器製造会社、自分のような古い世代だと「富士弦楽器製造」、今は「フジゲン」、もしくは「Fujigen」という会社を意識したのは、今から21年前、1992年の初夏の時期だった。

 途中、何度も辞めたりしながらも、縁が切れることがなかった八重洲出版というクルマやバイクの雑誌を作っている会社で、当時は前年にOld-timer、オールドタイマーという雑誌を創刊させて忙しく全国を飛び回っていた。もちろん扱うのはクルマ、それも昭和時代までの国内外の古いクルマで、そういったクルマいじりを楽しむ方々を取材して雑誌にしていたのである。

 あるとき、「長野県の松本市に古いフランス車をものすごい数集めて、分解修理したりしている人がいるよ」と知らさせれて行ったのが、そのときはグリーングラスという喫茶店のオーナーであった横内照治さんであった。取材としては当時も今も異例ながら、2日に渡って何十台もあるクルマを見せてもらったり、クルマのボディを作るという作業を見せてもらったりした。
 確か、取材していたときも自分が「そういえば、こっちにはエレキギターを製造する有名な会社があるんですよね?」と聞いたとき、「そうですよ、もし加藤さんがグレコ、Grecoっていう昔のエレキギターを持ってるなら、ウチの親父の会社が作っているはずです」とか横内さんが話していた記憶がある。でも自分は、1980年ころから楽器に触れなくなってしまい、確かに古いグレコのギターとベースは持っていたのだが、楽器の話は続かなかった。そして無事に6ページ分の取材をして、松本市を後にした。

 通常なら、取材した人とは掲載した時点で、いったんは縁が薄くなる。というか横内さんを掲載したOld-timerの第6号ころから、初代編集長の橋本が病に倒れ、編集長が変わったのだが、自分とその二代目編集長とは全く気が合ず、雑誌発売前後には八重洲出版から離れてしまったのだ。
 ところがその翌年ころ、編集部に残った知り合いのスタッフとどっかのファミレスで会って雑談をしていると、「そういえば、加藤さんが取材した横内さんとは、先日もイベント取材で会いましたけど、横内さんは日本でも有数の楽器メーカーの会長の息子さんなんですよね?」という話題になって驚いた。そこで改めて、楽器に詳しくない彼から、横内さんのお父さんの横内祐一郎さんは、とても従業員の気持ちを大切にした会社経営でフジゲンを成長させた、ひとかたならぬ人間性が魅力の方なのだそうだと聞かされた。そう、自分が会ったのは、その祐一郎さんの長男、照治さんであった。

 うーむ、もうオッサンと呼ばれる自分の中学、高校生時代、楽器に興味を持ったら、先ずは1万円前後で買える得体の知れない楽器を買うが、現実的に「欲しい!」となるのは、やはりグレコかフェルナンデス、そのくらいしか選択肢が無かった。もちろんFender USAやGibsonなんかもガラス越しに見ることはあっても、とても買えるという価格ではなかったし、グレコやフェルナンデスであっても新品は、小遣い貯めてポンと買えるほど安い額でもなかった。
 それでも高校に入ると「新品は無理だが、友達から譲ってもらえる中古なら、何とか頑張れば買える」と、デタッチャブルネックのグレコのEG360、フェルナンデスのジャズベースを買って、弾いて、「やっぱりメーカーもよくわからないエレキギターとは違うな」と、下手な自分でも弾きやすく感じたのは確かだった。

 そんな懐かしいというか、自分にとって超有名なグレコを作っていたフジゲンの会長の息子さんだと知らされても、「では、楽器持って、フジゲンでも訪ねてみましょうか」とは、いくら厚顔無恥な自分でも、下心みえみえで言い出せなかったのである。でも、気持ちとしては「う、あの、若いときの憧れがたくさん詰まったグレコを作っていた会社、……行きたい」とはずっと思っていたのである。でも、こっちの一方的な思いだけで厚かましく訪ねる勇気も、無かった……。

 で、時は流れて2013年、20年ほど前にファミレスで雑談した元同僚の彼もオールドタイマー編集部から離れてしまったけど、ときどき連絡はしていた仲だったのだが、「加藤さん、横内さん、覚えてます? 今度、横内さんは、松本市内で古い戦前戦後のラジオや家電製品を展示する、ラジオ博物館ができたので、平日ならそこで店番やってるんですよ。いちおう先日、横内さんに会ったとき、加藤さんが楽器のことで会いたいと言ってる、とは伝えました」という話を教えてもらった。
 その話を聞いてすぐに、ラジオ博物館には電話を入れて、横内さんに今度は楽器のことで改めてお会いしたい旨を伝えた。すると、「加藤さん、まだ父は記憶もしっかりして元気です。早く、会いに来てください」と言ってもらえたのである。

 せっかく訪ねるのに手ぶらってのもナンだから、我が家にあるフジゲン製楽器で一番古いと思われる2台のバイオリンベース、VB-200とVB-300、そしてお手本にしたであろう1965年製造と思われるHofner 500/1の3本を持っていった。

 ……ふーぅ、素直に「えっ? 横内さんのお父さん、グレコ作ってたフジゲンの会長さんなの! 会わせて、会わせて!」と言えれば話は簡単なのだが、あまりに昔からのあこがれとか、思いが重すぎて言えない、意気地なしの自分なのであった。


My Hofner
 500/1

Rickenbacker
少々


Hofner top


A poor English site was able to be done though it was not complete yet.



Rickenbacker
の小部屋
こっちもHofner 500/1と同様マニア向けなものは何もありませんが、少々エグいことやってます



1965-66年
Hofner 500/1
世界標準モデル
(カレントモデル)


1966年
Hofner 500/1
世界標準モデル
(カレントモデル)


1967年
Hofner 500/1
世界標準モデル
(カレントモデル)


1970年前後
Hofner 500/1
世界標準モデル
(カレントモデル)


1973年
Hofner 500/1
世界標準モデル
(カレントモデル)

Lefty(左利き)


1974〜75年?
Hofner 500/1
世界標準モデル

破損復元


1984〜85年
Hofner 500/1
BEATLES BASS
VINTAGE MODEL


1987〜89年
Hofner 500/1
 当時の標準モデル


 1988年〜
Greco VB165
Made by Hofner


1992〜93年
Hofner 500/1

 当時の標準モデル


1995〜1998年
Hofner 500/1
Beatles BASS
63Vintage


1996年〜
Hofner 500/1
 40th Anniversary
Type-I


1996年
Hofner 500/1
 40th Anniversary
Type-II

コンパネ修理など


1999〜2000年
Hofner 500/1
Beatles Bass
Vintage'63


1999〜2000年
Hofner 500/1
Vintage63
2連ペグ交換済み


2005年製
バインディング無し
ネックを採用、すぐ
回収されて姿を
消してしまった
初代HCT500/1SB


2007年10月
Hofner
 HCT 500/1
 モディファイ


2010年製
Hofner
Ignition Bass

11台目も
Ignition Bass
 でしたが売却済



Hofner
日々徒然


Hofner 500/1
修理みたいな
ことをしてみる


 その他、
 Hofnerの違い
使ったパーツなど


 Hofnerの
 過去の資料や
雑談など


 大阪のMr.YKがまとめた日本仕様(谷口仕様)
のHofner 500/1

*****
1961〜1970年代の
世界標準モデル

******
1994〜2000年初期の世界標準モデル
******
20/40というモデル
そして、
20/40の変遷表


本当のanother
Hofner story

渡辺昭夫さん
(アキオ楽器)


1967年頃?
Greco VB-200
VB-300
里帰りを果たす


我が家の
Hofner500/1の


Hofner
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●工場に着いて、先ずは、当時、グレコのバイオリンベースを作っていたという、牛丸寿英さんとお会いした。牛丸さんは昭和39年、1964年から富士弦楽器製造で働き始めている。当時の横内祐一郎専務とともに、電気技師の主任として数々のエレキギターの開発を手がけ、現在でもフジゲンの工場内で仕事を続けられている。
 いまさら昔の楽器なんか見たくないだろうとは思うが、検証を兼ねて持っていった3台のバイオリンベース、Greco VB-200、Greco VB-300、そして、1965年製造と思われるHofner 500/1を見てもらった。Hofner 500/1は、グレコがバイオリンベースを作る前の1965年ころ、当時の神田商会の近藤さんが持ってきて「これをベースにバイオリンベースを作ろう」となった見本とした楽器が1965製ころのだと思ったから。
 しかし牛丸さんは、大昔に近藤さんから見せられたHofner 500/1のことはしっかり覚えていた。「昭和40年、1965年の10月だか11月に、神田商会の近藤専務が持ってきた。うん、たぶん、この仕様のHofner 500/1だったと思いますけど、翌年にはビートルズが来日して、それからウチが作ったVB-200とVB-300も発売され、バイオリンベースは人気モデルになった」とも言っていた。
 ということは、もし近藤さんが細いコンパネの1964年製のHofner 500/1を持ってきたら、また別のルックスになっただろうし、1963年製造モデルまではHofner社も量産体勢になってなかったので日本での入手が難しいだろうが、もし1962年か1963年製のHofner 500/1を見本として当時の富士弦楽器製造に持ってきてたら、バイオリンベースはさらに違った道を歩んでいたのかもしれない。
 牛丸さんもまだまだ現役のクラフトマンだし、急ぎ足の工場見学のスケジュールだったので、当時の苦労話などは聞くことができないのが残念であった。


●次に伺ったのは、フジゲン、いやその前の名称である富士弦楽器製造の創業年に入社し、以降は工場長として、すべてのエレキギターの塗装を手がけてきた山崎智久さんであった。
 「富士弦楽器製造に入社したのは、富士弦楽器製造の創立が昭和35年5月だけど、昭和35年の8月26日だった。なぜ創業の3カ月後に入社したのかは、富士弦楽器製造という会社の創業当初はバイオリン作りを目的としていた。松本市でもスズキバイオリンを作ってたから、それをお手本、参考に作っていたのが最初の3カ月だった経緯がある。でも実際にバイオリンを作り始めてみると、バイオリンの需要が少ないことがわかった。これからはギターだ、ということで8月からギターを作り始めることとなった。そこで塗装経験者ということで、僕が入社したんだ」
 そう話してくれた山崎さんは、昭和10年生まれだということから、この年で78歳、しかしまだ仕事面では現役の職人である。さらに詳しくは書けないが、山崎さんの仕事の腕は、フジゲン製のギターに限らず、海外製有名楽器ブランドの国内販売分でも認められているのだ。
 楽器塗装歴53年の山崎さんだが、もともと楽器には興味なく、絵を描くのが好きだったから塗装さえできれば何でもよかったと言う。最初は地元、松本市内の別の会社に就職し、ミシンテーブルの塗装をしていたのだが、富士弦楽器製造がバイオリン製作からエレキギター製作にシフトしたときに、塗装経験者ということで転職したのだそうだ。入社後は、富士弦楽器製造の工場長として働いていたが、入社10年後には独立している。ただし独立とはいっても仕事は変わらず楽器塗装専門、しかも仕事の受注先は富士弦楽器製造のみであった。ある意味、最も長く富士弦楽器製造、フジゲンという会社と製品を愛し続けた人であるとも言えるだろう。


●さらに山崎智久さんには、厚かましくも持って行ったHofner 500/1をじっくり見てもらい、昔のことを思い出してもらった。
「覚えてる、確かにこのヘフナーだ。現在の本社がある平田に工場を移すころ、1965年の冬ころに、当時は神田商会の専務だった近藤さんが最初に持ってきたのが、このHofner 500/1の左利きモデルだった。そしてそのHofner 500/1を分解して構造を調べ、VB-200とVB-300を発売した。このVB-200とVB-300は、かなり売れたドル箱だった。けど、Hofner社の仕事を取っちゃったようなもんだから、富士弦楽器製造はHofner社に憎まれただろうね。それこそHofner 500/1の1/3程度の価格で日本やアメリカで売ったので、ドイツのHofner社からはそうとう恨まれてたと思いますよ」とのこと。

 この初代VBを発売以降、長い歴史を持つ海外のギター工場から学べと、当時の横内祐一郎社長は、アメリカをはじめ、ヨーロッパもドイツのHofner社の作業場も見学に行った。このとき、あのVBを作っている会社の人間が来たと、Hofner社の人たちからは冷たい対応をされたのかもしれない。それを横内社長から聞いた山崎さんは「ドイツのHofner社から恨まれた」という思いを抱いたのだと想像できる。
 なぜ「想像できる」と考えたのかは、これはあくまでも個人的に集めた資料や情報から推測するに限られた話に過ぎないが、1960年代から1970年代にかけて、富士弦楽器製造が製造したバイオリンベース、VBシリーズは、当時の海外輸出記録を見ると、一番最初に海外に輸出されたのが1967年6月13日の1本から始まり、第二陣として6月27日には144本もアメリカに送っている。さらに翌月の7月15日には72本の記録を残すなど順調に生産台数を増やし続け、神田商会を通した国内販売分がその半分だとしても、月平均150本前後、年間通じて2000本前後ほどの生産台数だったと思われる。しかしそのとき本家のHofner社は、後に1984年から正式に日本向け仕様のHofner 500/1の代理権を得た谷口楽器の渡辺昭夫さんに聞いても、「年間200本売ってくれるなら、日本仕様を作っていい」というくらい、200本売れればうれしいくらいの生産台数の楽器を作っていたのだった。
 Hofner 500/1は富士弦楽器製造が製造した安いVBシリーズに駆逐されかけた訳ではなく、1970〜80年ころの日本での売価である10万円弱では買ってもらえない楽器になっていたのである。ちょうど当時のHofner 500/1のカレントモデルは、ポール・マッカートニーが使っている仕様から最もかけ離れた仕様(ウムラウト付きヘッドロゴ、デザインの異なるペグ、セルバインディング付きのネック、シャークフインと呼ばれるバーブレイドピックアップ、ワイドな形状のコンパネ、ショートテールピースなど)の生産を軌道に乗せた時期でもあった。
 単純計算で10倍ほどの生産規模の違いがある会社同士で、「(少ない台数しか生産しない会社の)仕事を奪った」とかの次元の話にはならないと想像できる。さらにこれは自分の勝手な思いに過ぎないが、こと日本だけに限った話だとしても、もし富士弦楽器製造がVBシリーズを作っていなければ、国内のどのメーカーもHofner 500/1をお手本にコピーモデルを製造していなければ、年間10本にも満たない数本程度しか香港経由で入荷してこないHofner 500/1など、日本ではとっくに姿も形も見ることのできない忘れ去られた楽器となっていたのかもしれない。だから、確かに似させた楽器であることは認めるが、ドイツのHofner社に恨まれる筋合いはない。逆に日本では、買えるバイオリンベースはVB、本物はHofner 500/1という認識を広めた功績もあると、自分は思うのだ。

 山崎さんの記憶の中でのVBに話を戻す。「最初はベニヤ板を切って、各部の木材に熱を加えて加工した。しかし、う〜ん、このVB-200を改めて見ると、ボディサイドの腰のくびれた部分を貼り合わせた継ぎ目を隠す黒い塗装が施されていないのは、初めて見た。僕は、それこそ入社してから、富士弦楽器製造が作るギターをすべて塗装してきたけど、ボディサイドのこの部分が接着されていないのは見たことなかった。本当は、このボディサイドは左右の肩の部分2枚と、底の1枚、そしてくびれた部分左右の2枚、それぞれ熱をかけて湾曲させたバラバラの部分を組み合わせたほうが、コストかからなくて安く上がるんですけどね。このVB-200はもしかして、試作品として当時のもう一人、塗装をやっていた滝沢さんが苦労して作り上げたプロトタイプだと思う。たぶん滝沢さんが、Hofner 500/1を見ながらいろいろ苦心して、このボディサイドの部分を一枚のまま曲げて作ったんじゃないかな。一枚物でボディサイドを作るというのは、恐ろしく手間ヒマかかる、採算取れない仕組みになってしまう。長く僕もVBを見てたけど、この一枚物のボディサイドは初めて見た」ということが、わかった。
 同席していた横内祐一郎さんの息子さんの横内照治さんも、「ヘッドの貝が入ったロゴも、ちょっと考えられないほど右寄りにズレて付いてる。当時から検品はしつこいくらいやってたから、こんな位置にヘッドロゴが付いた製品は流通させなかったんだよね。もしかしたら、発売前の何かに合わせて急いで作った、世の中に出てはいけないモデルだったのかもしれない」とのこと。
 という珍しいかどうかは置いておいて、仕様に関して塗装をして、数多くのVBを見てきた野村さんに聞くと、「これを発売した1960年代後期当時、Hofner 500/1のようなセットネックは量産が難しかったから、デタッチャブルのVBのほうが安く量産できた。(今でもクリアの艶が失われていない塗料について聞くと)クラシックギターだけで使った以外、ラッカーはやってません。エレキギターはすべてポリエステル塗料を使ってた。ラッカーだと薄いから、年月経つと、表面がヒビ割れてしまうからね。ピックアップも、当時はまだ専門工場は無かったから、楽器と関係ないプレス屋さんにピックアップカバーを作ってもらい、コイルは富士弦楽器製造の社員たちがが手で巻いて、磁石と組み合わせて作ってた。そんなことを、思い出せるかな……」とのことであった。


●わざわざ山崎さんは、当時を思い出して、最初のVBのボディ作りを書いて説明してくれた。たまたま持っていったVB-200のボディサイド部分に継ぎ目は無く、一枚を加工して組み立てた物だから例外なのだが、通常は左上のように、ボディサイドの部分は、両肩の2枚、くびれ部の2枚、下部の1枚の合計5枚を組み合わせているのだ。これは、当時から現在に至るまでのHofner社の製品でも同様の構造である。そしてやはりHofner 500/1同様、くびれた部分の上下の接着部は塗装時に、黒く筋状に塗装されるのが通常だ。あとは樺材を使ったボディを切り出す前のの状態のサイズなど、覚えている限りを記してくれた。

※大阪のMr.YKから補足説明
 グレコVBが黒く筋状に塗装されるのかは別にして、どの時代のもドイツ製Hofner 500/1は 黒く縦状に塗装ではなく、クビレの繋ぎ目は、黒い縦のセルバインドが繋ぎ目に(保護用に)貼られています。その黒いバインドは2000年頃までは 黒バインドごとブラウンサンバースト色にボディサイド板部を吹き付けているので、黒い縦筋(セルバインド)は(茶色塗装の下に透けて若干黒っぽく見えるだけで)目立たない。が、2001年頃からの500/1では、黒い縦バインディングに茶色塗装が付かないようにマスキングをしてから、ボディサイド板部にサンバースト塗装を吹き付ける様に工程が変わったので(2013年製WHP3も)、その後の仕上げ用クリアー塗装も施され完成したボディサイド板部を見ると、くっきりと黒い縦バインド部が目立つ仕上げとなり、この部分に関しては'60年代仕様の再現とは異なる結果となっている。



●そして、いよいよ、自分が最もお会いしたかった、現会長の横内祐一郎さんにも、持っていった2台のVBを見てもらうことができた。


●左が、今でも頭脳明晰で記憶もしっかりしておられる横内祐一郎フジゲン会長。右が横内祐一郎さんの長男であり、1980年まで神田商会で勤務をされていた横内照治さん。今回は、横内照治さんの好意で、このようにVBの里帰りを果たすことができた。ちなみにだが、横内照治さんが東京の神田商会で働いていたとき、日本仕様のHofner 500/1をオーダーして販売していた谷口楽器の渡辺昭夫さんとも懇意にしており、神田商会の旅行に渡辺さんを誘って、楽しい時間を過ごしたことをしっかり覚えている、とのことであった。テーブルの上に置いてあるのは、1960(昭和35)年に富士弦楽器という会社を設立したときは、バイオリンを作る会社としてスタートさせた。やがて日本では、バイオリンの需要はほとんど広がらないと知り、たった3カ月の製作期間でバイオリン製作は中止となった訳だが、これはそのときに作られ、使用された型枠なのだそうだ。結果はどうであれ、会社をスタートさせたときの物を大切に今でも保管している。


●右が、ヘッドのロゴは変わったが、後のVB-360までずっと同じ仕様で販売され、10年ほどのロングセラーを続ける最初のモデル、VB-300である。正式な年代特定はできなかったが、極めて初期の状態に近いことから、1967〜68年ころの製品だと思われる。左が、フジゲン、富士弦楽器がエレキギターを作り始めてからほぼすべての製品の塗装をしていた山崎さんでさえ見たことない仕様だとされる、初期というか試作品と呼ぶべきVB-200。年代特定は、発売開始年の製品なら1967年の半ばころだが、見本としての試作品だとすると1967年の6月以前に作られた可能性もある。


●里帰りを果たしたVBたちには、生みの親でもある横内祐一郎さんから、ボディにサインをしていただいた。自分は、好んだ楽器は手放したくないので、このサインが入ったVBがどこかで販売されることは、まず無いと言える。自分にとっては、好きなバイオリンベースの思い出が詰まった富士弦楽器製造が作った製品だし、派生モデルとか発展モデルではない元のモデルなので、この2台は特別の存在だ。また、図々しく横内祐一郎さんに見てもらいたかった、改めてサインしてほしかった理由として、古くからフジゲン、富士弦楽器製造で働く牛丸さん、山崎さんも「これは、今につながるフジゲンの屋台骨を築いた、最初に売れた楽器だった」というように、古き良き時代に貢献したモデルに再び会ったという印がほしかった思いもあった。


 
●で、話を戻して富士弦楽器製造から平成元年(1989年)にフジゲンと社名変更した会社の工場見学もさせていただいたので、その紹介もする。
 工場見学で最初に見せてもらえるのは、ネックの製造工程である。大阪のMr.YKや山野楽器の須田さんなどは材木にも詳しいので、こういう風景を見ただけで、「これは、〜ですね」とか言い当てるのだろうが、残念ながら自分は木材には詳しくない。ただ、3ピースネックなど、このように貼り合わせて作るのだと教えてもらった。


●この棚に置かれているのは、左上から下に「ウォールナット棹突板」「ブビンガ棹材」「メイプル突板」、右上から下に「ウォールナット棹突板」「ウエンジ材」「ウォールナット材」「マホガニー材」だった。




●ネックの裁断加工風景と、おおまかな形になった5ピースネック。




●そしてネックは、NCルーターで形どおりに切り取られ、いよいよネックらしくなる。


●案内してくれた吉田さんによると「接着剤は、50年くらい昔からボンドを使っており、現在では主に小西ボンドのSH20L。ただし、トラスロッドの埋木の接着には、ニカワ成分に似た、タイトボンドを使うこともある」のだとか。SH20Lは、ニカワのように熱をかけてはがすことはできないが、接着力は強力で、ネックの固定などは3時間程度の乾燥でしっかり付けることができるそうだ。ちなみに自分のHofner 500/1のネックが外れたのを接着したけどしっかり固定できなかったこと話すと、「ネック側とボディ側、双方の接着面を平らに整えないとしっかり固定するのは難しい」とのこと。




●そしてここには、各種、各色の指板が置かれていた。ローズウッド、メイプルくらいしか知らないのだが、それでもそれぞれの色合いには、違いがけっこうあるのだ。しかも、ワシントン条約で輸出規制が出る前に仕入れていた、大昔のHofner 500/1でも使われたハカランダがまだ在庫してあった。


●ネックに指板は、このように接着される。写真で見てわかるとおり、この指板にはドットポジションが入るのだ。


●こちらは、ドットポジジョンではなく、貝を砕いたインレイが入る作業を、手作業しているところ。


●フレットの溝を切るのは、専用のカッターを使う。ショートスケールはサイズに合った別のを使う。

●ほぼ完成状態のネックが納まっている。しかし、本当の手作業は、これから始まるのだ。

●そう、自分は勝手に安物楽器と、高級楽器の違いを見分けるひとつと決めている、フレットサイドの滑らかさは、このように手作業で磨き上げられる。すべてのギターに施されるわけではないが、「ネックに取り付けたフレットの角は、球面になるまで削る」のがフジゲン基準なのだとか。

●こちらは、仕上げ前。

●写真ではわかりにくいが、これは仕上げ後。

●たぶんこれは高級モデルのだろうが、このようにネックサイドを磨く、という一例。



●ボディも、やはりNCルーターで、決められたサイズに正確に切り取られる。フジゲンは、NCルーター導入が早かったのだ。逆に、有名どころで導入が遅かったのが、リッケンバッカーだった。



●セルバインディングも入って、あとはネックを取り付けるだけになったボディが並ぶ。だが、工作機械が発展したとはいえ、ピックアップの配線を通す穴は、まだまだ人の手でドリルによって開けられている。

●先に、持って行ったVBの2台と、Hofner 500/1を見てもらった牛丸寿英さんは、まだまだ現役のクラフトマンである。楽器作りをする前は、セコニックという露出計を作ってた会社で働いていた牛丸さんは、かつての富士弦楽器でピックアップも手作りしていた。その腕前は今でも健在で、「最近のEpiphoneのピックアップを分解してみたら、昔ながらの作りをしているなぁ、と感心した」とも話していた。

●牛丸さんの前では、野村さんというボディ組み立てののベテランが働いている。昭和46年入社というから、富士弦楽器時代から数えてこの道46年のベテランだ。

●これは初公開だと思われる、乾燥室。大昔はこれが無かったから、乾燥が十分でないのに塗装したせいで、作った楽器にトラブルが出ることもあった。楽器製造には乾燥室が必要だとわかり、当時は近くにあったマツモクがミシンを作っていた外資系の会社で、ちゃんと乾燥室を持っていたからボディ材の取り引きが行われていた時代もあった。40度のプラマイ5度、高温で使うときはもっと高めにして木材内のヤニとかを出すこともあり、湿度は目的に応じて変わる。この40度プラマイ5度という温度は、学者の説によると、木材の老化を進める水分を最も排出しやすい温度なのだという。それ以上の温度だと、木材の細胞を破壊しやすくなる。今はネックだけど、ボディも、エレキ用の一部も乾燥処理される。一週間で落ち着いてくる。2〜3週間入れっぱなし、自然乾燥だと1年くらいかかる。サウナのようなものを想像すると早い。



●ここは、フジゲン大町工場内にある、フジゲン・ファクトリー・ハウス。内部は下の写真のように、アコギからウクレレ、最近のエレキギターのメインモデルが展示されていて、試演もも可能だ。ここは一般にも公開されている。
 その他、工場入り口の建物のところにも、富士弦楽器製造時代、1960年代の一部楽器も展示されている。

●これは、場所は秘密だが、1960年代初期に作って海外で販売された富士弦楽器製造エレキギターの黎明期モデルも集まっている。こうした歴史的なモデルも、これから増えていくし、やがてはフジゲンの楽器ミュージアムのようなものも開設される可能性がある。ここは非公開だ。


■フジゲン大町工場は、事前に連絡をすれば、平日に限って、工場見学を受け付けている。
(コロナウィルス関連で行わないこともあるので、こちらのギター製造工場の見学・取材についてを参照−フジゲン株式会社大町工場MI事業部営業課へお問い合わせください E-Mail)

詳細は、フジゲンのサイトで確認のこと。

 その他、フジゲン(平成元年までは富士弦楽器製造)に興味を持った方は、自分としては以下のサイトを訪ねてみるのを勧める。
ガラクタギター博物館
 さらに上記サイト内で、松本を中心とする信州や大昔の楽器業界の歴史を知りたいなら
松本ギターズ を読んでみるのをお勧めする。記載内容に関しては、想像や思い込みの文章が多いネットの情報の中でも、ちゃんと当事者から裏付けを取って取材している、信頼できる文章で構成されています。

−また、横内照治さんは現在、直接フジゲンの関係者とはなっていないが、平日(火曜〜金曜)の午後1時〜5時まで、松本市内のラジオ博物館という所で店番をやっている。入館料は500円かかるが、古いラジオに囲まれて、富士弦楽器やフジゲンの話、エレキギターの話を楽しみたいなら行ってみる価値はある。事前連絡は欠かせないので、以下サイトや、電話連絡して確認しておこう。
 日本ラジオ博物館
 〒390-0811 長野県松本市中央2-4-9
 電話:0263-36-2515 (開館時間内のみ)

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